Q1
劉鋒先生、今日はどうぞよろしくお願いしますm(..)m
先生は演奏には厳しいけれど、普段はとてもおっちょこちょいなところがあるのです!
先生、携帯をよく無くしますよネ?
「はい、そして財布とか手帳とか、いろんなものを無くしたりしています^^;」
Q2
一度、一年間の演奏スケジュールが全部書いてある手帳をなくされて、慌ててましたよね。
「すーっごいことになって、いろんなところに電話で確認するということで、ああ・・・、大変でした^^;」
Q3
でも、その時もなんとなく大らかに、なんとなく切り抜けた、という印象が・・・。
「そうですネ。運が良かったというか、わかんないんですけれども、でも、うーん仕事の方は順調で、
はい、なんとかできました^^;」
Q4
さて、劉先生はお生まれは福建省ですね。先生とニ胡との出会いは?
「あー、そうですね、子どものときにはニ胡というのは実は・・・・・・。ただ、家の父がよく弾いていて、
なんかあまりそんなにいい印象ではなかったんですけれども、でもお父さんがすごく好きで、6歳のときに父が
もう始めてもいいということで、それで始めました。それで、1年習った後にどうしても練習が苦しくて・・・
やめました、自分で。父に「どうしてもできない」というふうに伝えて、それでやめましたけれども、、、。
ですが1年後と瞬間的にもう一度自分で、、、。妙な気持ちかわかりませんけれども、、、。
その時に「ああ、もったいないなあ」には8歳と思ったんです。
それでまた父に「そうしたら私もう一回試してみます」ということで、そうしてその時にいうことで、その時から
今までずーっと続けています。」
Q5
では8歳から?
「そうですね、私の母親は専門学校のピアノの先生ですけれども、いろいろ音楽に関しては影響を
たくさん受けていますね、はい」
Q6
お父さんは、ニ胡は先生でいらしたんですか?
「えー、父は全然違う専門なんです。ただ、ニ胡が好きという。大学の先生ですけれども、音楽の先生
じゃないんですね。はい^_^」
Q7
じゃ、趣味でやっていたのを、娘にも・・・?
「はいそうです。あの、私にたくさんの夢を託して、はい、そういうことです^^」
Q8
そして、先生は小さい頃はお父さんに習っていらっしゃったんですよね?
「はい、そうです。専門学校に入る前までずーっと父のもとで。」
Q9
やりにくくはなかったですか?
「いやあ、でも、父はすごく厳しいから、私は聞くしかない、という感じで。うん、ついていったんです
けれども」
Q10
そして、お父さんの教育の甲斐あって、その後メキメキと頭角を現されます。
17歳、飛び級で中国でトップの音楽大学に入学。先生が入学された年は、文化大革命が終わった年に
あたって、それまで政治の影響で大学に入れなかった人たちが一気に入学してきて、同級生は年齢が
バラバラだったとか?
「そうですね、その時に私のクラスの中で私が一番年下ですけれども、他には30歳とか、本当に
そういう人たちばかりで、すごいおもしろいクラスです。
Q11
どんな大学生活だったんですか?
「普通は同級生だとみんな友達になったりするでしょ?
私は、すごく年齢差があって友達になれないくらい、話にならないくらいですよね、そして、あの大学の中に
附属中学(日本の高校)があるんですよ。その学生達と仲良くしてたんですね。だから私も飛び級じゃなかった
ら、附属中学に入るはずだったんですけどね。だからクラスの中には、友達にはなれないんだけれども、でも
すごくかわいがってくれて、すごくいい思い出ができました。」
Q12
今もそういう年齢幅の広い同級生とは交流はあるんですか?
「ああ、本当は同級生との交流はあまりないんですよ。あの、今連絡しているのが、その時の附属
中学の友達たち。今もみんな音楽の仕事しているので。」
Q13
ところで、先生が日本にいらっしゃったのは13年前の1992年のこと。
劉鋒先生が卒業された大学は中国でナンバーワンの音楽大学を卒業されれば、当時は中国では将来を
約束されたも同然。劉鋒先生はそこを主席で卒業されて、卒業後もトップソリストとして中国国内で活躍され
ていましたが、その恵まれた環境から離れて日本で演奏することに決めたのは?
「はい、実は、私の家族の中には日本への留学生が多いんですよ。
一番近いといえば、私のおじいちゃんですね。おじいちゃんは4人兄弟ですけれども、3人が日本に留学した
ことがあります。何年間か、3人一緒に日本に来て、えーっと早稲田大学、東京工業大学、そして東京大学に
留学しました。だからそういう留学した後に、日本のうるしのテーブルまで運んで持って帰ってきました。
そして、食べ物としたら、「すき焼き」の調理方法を習って、それで帰ってきて、だから私の家族のお正月の
ときにはいつもすき焼きを食べていました。すごくおもしろいでしょ?」
Q14
なんか、そんな時代にすき焼きがあったのか、というところからはじまっちゃうんですけれども。
「うん、でも私の家族は「すきやき」と、そのままの言葉で使っていたんです。
でも、私小さい頃はそれが日本の料理とはわからなかったんですけれども、日本に来てから、「あっ、日本の
料理だあ」ということがわかりまして、そういう影響が沢山ありまして。あのもちろん家で日本の話もたくさん
ありましたし。だから、日本と中国の国の交流を始めてから、私が21歳の時に、国と国の交流のため「中国
音楽家国技」というので、何人かの音楽家たちと一緒に日本に来たことあります。」
Q15
それは正式に日本に来る前に、一度日本にいらっしゃったことがあるということ?
「そうそう、はい、そうです。そうして、コンサートとかやった後にすごく大歓迎されて、そういう印象が
すごく深かったんですね。日本はいい国だなあ、それが家でずーっとおじいちゃんとかおばあちゃんとか
お父さんとかから聞いていた話を全部、ここで見たということがすごくうれしかったんですね。それで中国に
帰ってから、ああ、私いつか日本に行こうかなあとずーっと思ってたんですね。そうしてやっとチャンスが
あって・・・、はい、来ました!」
Q16
今日はスタジオでも生演奏を是非披露して頂こうと思うのですが、ニ胡という楽器について少し・・・。
ニ胡というのは、東洋のバイオリンとも言われていまして、元々、西の方からシルクロードを渡って中国に
入ってきたものを改良したものがニ胡と言われていますね。で、日本の楽器では、見た目や演奏方法が
似ていることから日本の「胡弓」と同じように言われることが多かったのですが、でも実は全く違う楽器でして、
中国では伝統的な楽器の一つなんですよね?
「そうです。擦弦楽器ですが、中国のニ胡は、中国に何十種類、百種類くらいある擦弦楽器の中の
一つ。日本で「胡弓」と言われていた時期もあったんですが、「胡弓」と「ニ胡」とはどう違う?という質問が
いつもありました。実際は中国の言葉で「弓胡」という言葉があります。実はこれ、弓で演奏する擦弦楽器の
ことですね。だからその中にニ胡は一つの種類としてある、ということです。」
Q17
そして形なんですが、六角形とか八角形の筒にニシキヘビの皮を貼りまして、その筒に二本の弦が
張ってあるんですが、その2本の弦の間に馬のしっぽで作られた弓を通しまして、弦をこすって音を出す
のですが、この奏でる音が人の声に似ていると、よく言われますよね。ですが!、それだけではなくて、ニ胡と
いうのは鳥の鳴き声とか馬の鳴き声とか、それから雨の音などいろんな音を表現することができます。
それで今日は先生に、馬が走る様子、馬の鳴き声を聴かせて頂こうと思います。
モンゴルの伝統行事に競馬があるんですが、その時の様子を表した曲「賽馬」という有名な曲が
あります。広い草原を馬が競いながら走る様子を想像して聴いて下さい。
〜「賽馬」の生演奏 かなり高速です。〜
Q18
スピード感があって、私は先生が演奏される「賽馬」が大好きなのですが、先生はいかがですか?
「そうですね、すごく楽しい曲ですので、演奏している間にすごく楽しくなるんですね、はい^m^」
Q19
さて、実は先生にとって「千葉」というのは日本での活動の原点ともいえる場所・・・。
1992年に来日されましたが、その時は、千葉大教育学部音楽教育専攻の留学生としてだったそうですね。
その時の思い出は?
「そうですね、その時にあまり日本語できなくて、授業はすごく困りましたけれども。
本を読むのも大変でした。それにその時から演奏の活動をしていたので、そうすると、勉強と演奏と両方する
のが大変でむちゃくちゃになってしまったのですが^^;、はい、パニックになって。やっぱり私の希望としては
演奏を中心にして沢山の日本人に聴いて頂くということですので、だからどうしても演奏に夢中ですよね。
勉強のことは、ときどき演奏をするために授業をさぼったりしていました^^;・・・私の教官から、ときどき「あ、
劉さん、しばらく」と言われました、はい^^;」
Q20
あんまり学校に顔を出していなかったということですね^m^? 演奏活動に熱心なあまり大学には
あまり顔を出さず、その間演奏活動をされていたという先生なのですが、実は、先生は出しているCD2枚とも
がライブ収録、スタジオで演奏するよりも、コンサートやライブなど、生で、お客さんの前で演奏するのが好き
だと、それはなぜ?
「はい、コンサートの時に、こちらからパワーを発射して、それで逆にお客さまの方から、その反応・
パワーをもらって、そうして音楽はできるんですね、そういう音楽はおもしろい。その場、その時の演奏に
よって違うというか、本当に毎回の演奏が違うということです。気持ちの伝え方が変わっていくということが
ありますから、すごくおもしろい部分ですね」
Q21
では、お客さんの力を借りながらの演奏ですね、緊張感とか?
「はい、いい緊張感にすれば、すごくいい音楽の表現ができると思いますね」
Q22
いつも思うんですけれども、ニ胡は簡単そうなんですよね、楽器を見ると。でもやり始めると、習得の
難しさを実感するんですが、その奥の深さとして、ピアノやギター、バイオリンなど、西洋の音楽と比べて、
どんなところが違いますか?
「そうですね、簡単そうに見えますね。ただニ本の弦を一つの弓でね。だけど、その中に、指板が
ないということ。空中で弦を押さえることでしょ。音程とりにくいということですね。力によって、同じ場所でも
音が違う、音程が違うでしょ。それが、耳を借りて、目を借りて、そして手の感覚を借りてやるのが、この楽器
の特徴なんですけれども。でも、なかなか・・・、弦の上に2オクターブ半ありますから、その音の間をずーっと
走ったりするのですから、ここがかなりのテクニックを持たなければいけないんです。むずかしいですね。
だから、バイオリンは、ピアノもそうですけれども、バイオリンの場合は指板があるから、同じ場所を押さえれば
必ず同じ音が出るんですけれど、ニ胡の場合はそうじゃないんですよね。ピアノは鍵盤があってそれを押さえ
たらいいですけれども。」
Q23
先生は有名な演奏家とも同じステージに立たれています。例えば、世界的に有名なチェロ奏者、
ミーシャ・マイスキーさんとか、ギター奏者の押尾コータローさんとも。どうですか、共演したときというのは?
「そうですね、お二人は音楽分野が全然違いますけれども、でもステージで感動させるという魅力を
感じましたね。例えば、ミーシャ・マイスキーさんの演奏のパワー、迫力というのが、その場ですごく心にくる
というのがありました。一緒に一曲弾きましたけれども、その音を魅力に感じて、自分も頑張らなくちゃという
気持ちがたくさん出てきましたね。押尾さんのコンサートでは、ニ胡はメロディ楽器ですのでね、それに
(ギターで伴奏を)つけてくれるという、一つの音楽を作り上げた、というのが本当にすばらしい。
すごく上手にしてもらって、一緒に一つの音楽を作るということを感じて、それでもっとよい表現ができて、
その場ですごく気持ち良く演奏しました。^_^」
Q24
では今日はもう1曲演奏して頂くのですが、先生は日本の曲もお好き。「荒城の月」、これはどんな
思い出があるんですか?
「日本に来てから「荒城の月」を聴きまして、すごくはまりましたね。そのじーんとくる音楽の深さ。
寂しさ中に深さがあることを感じて、すごく好きになって・・・。だからいつか自分もこの曲を弾きたい!という
気持ちが強くなって、それで自分でアレンジまでしまして・・・はい^_^」
〜演奏〜
(次の日のコンサートのお知らせをし終わった後で・・・)
Q25
先生、母国中国と日本の観客の反応に違いはありますか?
「そうですね。中国での反応は、みんなすごく正直で、好きじゃなければ拍手しないということですよ。
怖いところがあるんですよ。でも日本の場合は、みんな優しくて、好きじゃなくても拍手してもらえることが、
これがすごく感じますよね。だけど、いつもいつも日本のお客さんから「感動しました」「涙出ましたよ」という
言葉をもらって、日本での演奏をすごく楽しくやっています。」
Q26
日本を拠点に活動されていますが、今後の活動予定は?
「そうですね、演奏やコンサートをやって、できるだけたくさんの人に聴いてもらうというのが一番の
希望ですけれども、それは「ニ胡」という中国の文化を沢山の人に知ってもらうということですが。
それでもう一つの希望がありますね。今、生徒にニ胡を教えているのですが、この中から何人かニ胡の奏者と
して活動できれば、そうしてまた他の日本人に教えることができれば、これは一番うれしいと思いますね。
そうしたら、もっともっと「ニ胡」という楽器を沢山の人達に知ってもらうということができると思いますね、はい^_^」
ニ胡は難しいけれども楽しいですから、これを機会にぜひ試してみてはいかがでしょうか?
先生、今日はどうもありがとうございました〜。
お疲れさまでした〜
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